傾く人生 歌舞伎道
  • 【現代に失われた男道=歌舞伎道】

    【現代に失われた男道=歌舞伎道】
    敵の荒ぶる魂までも吸い取る
    幡随院長兵衛の黒紋付の黒

    数ある歌舞伎の舞台の中でも、歌舞伎の花道を印象的にいろどる黒紋付に袴姿といえば「極付幡随長兵衛(きわめつけばんずいちょうべえ)」の大詰め近く、侠客(きょうかく)の幡随院長兵衛(ばんずいいいん・ちょうべえ)が見せる姿でしょう。
    この場面は町奴(まちやっこ)の親分である長兵衛が、殺されるとわかっていながら旗本奴(はたもとやっこ)の頭領(とうりょう)、水野十郎左衛門の屋敷へ出かけるという場面です。町人とは思えないほど気品のある長兵衛の黒紋付姿にほれぼれとさせられ、またこの日のうちに殺される長兵衛の運命を思って、胸が痛くなるシーンでもあります。
    長兵衛の黒紋付姿に品格があるのは、長兵衛が実は武家の出だといわれているからでしょう。

    (写真1)

    上の写真は黒紋付に袴姿で弓を引く、幕末の武士の写真といわれるものですが、実在した幡随院長兵衛(1622-1650~1657年)の紋付の下の肉体もまた、このようなものだったのでしょうか。そして長兵衛を殺した水野十郎左衛門成之(みずのじゅうろうざえもんなりゆき、1630-1664)の肉体もまた。
    「極付幡随長兵衛」は九代目・市川團十郎(1838-1903)のために作られたもので、初演は明治14(1881)年10月、東京・春木座でのことだそうです。
    しかし九代目・團十郎はこれ以前にも幡随院長兵衛を演じてはいるようです。九代目・團十郎は七代目・團十郎の五男だったため成田屋を出て、一度は河原崎家の養子となり、嘉永5(1852)年には初代・河原崎権十郎(かわらさき・ごんじゅうろう)となりました。

    (写真2)

    上の役者絵は「幡随院長兵衛を演じる河原崎権十郎」を描いたもので作者は三代目・歌川豊国(=初代・歌川国貞、1786-1865)であることから、ほぼ間違いなく若き日の九代目・團十郎だと思われます。しかしこの絵の「ご維新前」の河原崎権十郎(おそらくのちの九代目・團十郎)がどれだけ史実にもとづいて幡随院長兵衛を演じることができたかは疑問を感じざるを得ません。
    というのは明治17(1884)年の「極付幡随長兵衛」の役者絵(作者は豊原国周(とよはら・くにちか))を見ても「水野十郎左衛門」ではなく「水尾十郎左エ門」と書かれており、旗本「水野」の名を使うことがいかに長い歳月、歌舞伎道ではタブーだったかがうかがわれるように思います。
    幡随院長兵衛は唐津藩士の子だったという説が有力ですが、そうだとすれば島原の乱(1637-1638)がもとで改易(かいえき)となった寺沢家の家臣の子だったかと思われ、いわば「負け組」の武家の子といえましょう。

    (写真3)

    この「負け組」出身の長兵衛に対して、水野十郎左衛門成之は勝ち組も勝ち組、祖父の水野勝成(初代の福山藩主、1564-1651)は徳川家康(1543-1616)の生母の弟の子、家康の従弟(いとこ)にあたります。
    水野勝成は青年時代は勇猛かつ無軌道なところのある武将であり、父を激怒させて水野家を追放され、15年もの放浪生活を送ったという人物。父が石田三成に暗殺されたため水野家当主となってからも、家康がいったん禁止した歌舞伎興行を京都で行うなど、まさに本物の「かぶき者」と呼ばれるにふさわしい武将だったといわれています。

    (写真4)

    歌舞伎のパトロンでもあった祖父・水野勝成から戦国の荒ぶる「かぶき者」の魂を引き継いだ十郎左衛門成之には、無軌道なエネルギーのはけ口が与えられることはありませんでした。泰平の世を何よりとする徳川幕府からみれば成之は「不良旗本青年集団」のリーダーでしかなく、乱行(らんぎょう)のあげくに、江戸の町人から信望を集めていた幡随院長兵衛を殺してしまったのですから、切腹を命じられて果てるという結末もある意味、当然のことだったのかもしれません。
    しかしそれでもなお、水野十郎左衛門成之に殺されに行く幡随院長兵衛の黒紋付姿には哀しさばかりでなく、神々しさや優しさが感じられるのはなぜでしょうか。
    「劇聖(げきせい)」とうたわれ、今の歌舞伎道と成田屋の礎(いしずえ)を築いた九代目・市川團十郎の目には、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で武士が見せた荒ぶる魂が映っていたことでしょう。この世にエネルギーのはけ口のない、男たちの荒ぶる魂を黒紋付の黒で吸い取り、歌舞伎の花道から連れ去って行く…明治時代の観客にはそんな幡随院長兵衛の「男道(おとこみち)」が見えていたのかもしれません。

    (写真1)幕末の武士と思われる写真。
    (写真2)「幡随院長兵衛を演じる河原崎権十郎」を描いた幕末の役者絵(三代目・歌川豊国)。
    (写真3)安土桃山時代の「かぶき者」を描いたと思われる人形(寿三郎人形・辻村寿和コレクション)。
    (写真4)水野十郎左衛門成之が切腹した年に生まれた鳥居清信(とりい・きよのぶ、1664-1729)の役者絵「早川はつせと中村七三郎」。江戸の若衆歌舞伎の雰囲気が感じられます。

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