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「勧進帳」誕生のかげにはナゾのご贔屓が…
【歌舞伎の花道/成田屋の花道】「勧進帳」誕生のかげにはナゾのご贔屓が…
【歌舞伎の花道/成田屋の花道】
「勧進帳(かんじんちょう)」は今でこそ、成田屋に伝わる歌舞伎十八番の一つであり、歌舞伎道を代表する」演目の一つです。
ことに幕切(まくぎれ)、弁慶(べんけい)が飛び六方(とびろっぽう)を踏みながら花道を引っ込む場面はまさに「歌舞伎の花道」といえるものです。
しかしその初演は意外に新しく、天保11(1840)年3月、江戸・河原崎座でのことだったといいます。
能の「安宅(あたか)」をもとにしていることは今では歌舞伎道の常識ですが、当時としては実に斬新で画期的な企画だったと思われます。
(写真1)
能を歌舞伎化するという発想を最初に出したのは「勧進帳」を初演した七代目・市川團十郎(1791-1859)と言いきってよいと思います。
しかし、そもそも七代目・團十郎がいつ、どこで、どのようにして当時の一流の能の舞台を観(み)ることができたのか、というのは実は小さくない謎(なぞ)です。
というのは江戸時代には能は「武家の式楽」とされ、多くの能役者が将軍や大名のおかかえでした。
間部詮房(まなべ・あきふさ、1667-1720)のように能役者から六代将軍・徳川家宣(とくがわ・いえのぶ、1662-1712)の側用人(そばようにん)となった例もあり、「町人のアイドル」である歌舞伎役者とは大きな身分の違いがあったようです。
なぜ能が武家の式楽になったのかといえば、一つには戦国時代、武将に従って戦場へ行って能を演じ、命を落とした能役者もいたからだという話もあります。
(写真2)
七代目・團十郎が身分の違いを越えて、上流の武士の屋敷で能を観て、そして、ことによると一流の能役者から指導を受けることができたとすれば、團十郎の背後には相当に大物のご贔屓(ごひいき)がいたことが想像されます。
「ほんものの武家の能を観て、学びたい」という七代目・團十郎のたっての願いを聞き入れ、後押ししてくれたご贔屓とはいったい誰だったのでしょうか。
あくまで想像ですが、そのご贔屓とは、大名貸し(だいみょうがし…町人が諸大名に金銀を貸したこと)もしていた大商人だったかもしれません。
もし大名貸し商人だったとしたら、七代目・團十郎は大名屋敷でひそかに能を観て、そして後日、その日演じた能役者の屋敷を訪ねて、教えを請うたのかもしれません。
(写真3)
何か因縁のようなものを感じますが、江戸時代の銀座には能役者の屋敷が数多くあったそうで、七代目・團十郎がその屋敷の中の一軒を訪ねていたとすれば、その意味でも銀座こそ「勧進帳」発祥の地といえるのかもしれません。
七代目・市川團十郎は明治維新を見ずに亡くなりました。しかし身分の違いを越えて「勧進帳」を創作したことは明治以降の成田屋に大きく貢献したのみならず、歌舞伎が明治」の政財界人にも、さらには外国人にも受け入れられる素地を作ったといえましょう。
今もなお七代目・團十郎の魂は「勧進帳」が上演されるたび、歌舞伎の花道で飛び六方を踏んでいるのかもしれません。
(写真1)「勧進帳」の弁慶を演じる十一代目・市川團十郎(1909-1965)。
(写真2)1100年余りの歴史をもつ奈良・興福寺(こうふくじ)の薪後能(たきぎおのう)。戦国時代の野外の陣中での演能のおもかげも感じられます。
(写真3)「石苔亭 いしだ」(長野県下伊那郡)の能舞台。江戸時代の町人にとってはお金を払っただけでは見ることができない、禁断の世界でもありました。