傾く人生 歌舞伎道
  • どうなる猿之助さんの「澤瀉屋」 歌舞伎の芸は「家」で継承

    ■傾く人生 歌舞伎道 銀座・成田屋のトピックス

    四代目襲名発表の際に記者会見に臨んだ市川猿之助さん一家。左から中車(香川照之)さん、團子さん、猿翁さん、猿之助さん、段四郎さん=平成23年9月

    東京都目黒区の自宅で18日に倒れているのが発見された歌舞伎俳優、市川猿之助さん。その屋号は「澤瀉屋(おもだかや)」。歌舞伎界には市川團十郎さんをはじめ市川姓が多く、その区別もあって客席の大向こうは、團十郎さんであれば「成田屋」などと屋号でひいきの役者に呼びかける。歌舞伎と文楽は伝統芸能の世界には珍しく家元制度がなく、家名とそれに付随する名跡によって継承されてきた芸能だ。それだけに「家」の持つ意味は大きい。代々、歌舞伎に新たな風を吹き込んできた澤瀉屋。その「芸」は今後、どう受け継がれていくのだろうか。

    実力で大きく

    武士以外は名字が許されなかった江戸時代、役者も大きな農家や商家にならって、屋号を用いるようになったといわれる。その最初が團十郎家の「成田屋」で、初代團十郎(1660~1704年)の千葉・成田山の信仰に起因する。團十郎家だけが「市川宗家」と呼ばれるのも、数ある市川家を束ねるとともに、江戸歌舞伎を代表する特別な存在だからだ。

    一方、市川猿之助家の初代(1855~1922年)は名門出身ではなかったが、「明治の劇聖」と称えられた九代目團十郎(1838~1903年)の門弟として頭角を現した。團十郎家の俳名「白猿」から「猿」の字を取って猿之助を名乗るようになり、実力で名前を大きくした。屋号は初代の生家が、薬草の澤瀉を扱う薬屋も商なっていたことに由来するといわれる。

    新風次々と

    初代の長男の二代目(1888~1963年)は明治末、現代劇にも挑戦。大正期には欧米を視察し、ロシアのバレエに刺激を受けて今も踊り継がれる「黒塚」「独楽」など新舞踊運動の一翼を担った。
    二代目の孫である三代目(現・猿翁、1939~)は「加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ)」などで古典を新演出で復活させる一方、歌舞伎に最新技術や現代音楽を取り入れ、宙乗りなどの演出で見せる「スーパー歌舞伎」を創始。歌舞伎が集客に苦しんでいた昭和末、「ヤマトタケル」「リュウオー」「オグリ」を発表し、観客を呼び戻した。
    そして四代目(1975~)は三代目の弟で、今回死去した市川段四郎さん(1946~2023年)の長男。勉強熱心で二代目亀治郎時代、自主公演で古典の大役を学び、平成24年の四代目襲名後は、伯父である三代目の芸を「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」として発展させる。人気漫画を原作とした「ワンピース」は、再演される人気を誇った。確かな演技力に加え、プロデュース能力もあり、若手のリーダー的存在だ。
    歌舞伎の家は養子縁組で続くケースもあるが、ここまで見てきたように猿之助家は初代から血縁で継承され、名跡が途絶えた時期がない。反骨精神にあふれ、研究熱心なのが共通する特徴で、だからこそ新たな歌舞伎を生み出してきた家といえるだろう。(飯塚友子)

    引用:産経ニュース

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