傾く人生 歌舞伎道
  • 歌舞伎名門「成田屋」と成田山新勝寺の深い関係

    ■傾く人生 歌舞伎道 銀座・成田屋のトピックス

    祇園会 (c)大本山成田山新勝寺

    重要文化財指定の仁王門

    額堂にある七代目市川團十郎像

    重要文化財指定の三重塔

    毎年、全国の初詣人出ランキングで明治神宮に次いで2位を獲得し続けているのが、千葉県成田の「成田山新勝寺」だ。創建は古く、平安時代に反乱を起こした平将門の調伏(ちょうぶく/魔物などを降伏させること)祈願のため、弘法大師自刻の不動明王を京都から成田の地に運び、護摩祈祷(きとう)をしたことに始まっている。

    将門の討伐後京都へ戻ろうとしたが、不動明王がまったく動かなくなり、これはお告げであろうと考えた人々はこの地へお堂を建て、「勝」の名を冠した寺名を建立した。

    余談だが、平将門は討たれたとはいえ東京大手町に首塚が作られ、神田明神の祭神として祀られている武将である。こういった経緯からか、「将門の子孫は成田山に足を踏み入れない方がよい」とか「藤原秀郷(将門を討った武将)の子孫は首塚や神田明神には行かない方が良い」「そうでなくても成田山と神田明神は同日に訪れるべきではない」などといった都市伝説が、まことしやかに語られている。

    屋号「成田屋」の誕生

    その後の成田山新勝寺は、源頼朝など源氏の祈願・寄進などもあって隆盛を見たが、戦国時代にはかなり荒廃、復興は江戸時代まで待たねばならなかった。大寺へと飛躍していったのは、徳川光圀や徳川綱吉、桂昌院などの寄進などに加えて、なんと言っても市川團十郎の信心によるところが大きい。

    市川宗家の屋号は「成田屋」。今では歌舞伎界で屋号を使うのは一般的だが、始まりは市川團十郎が上演した「成田山分身不動」での「成田屋っ!」という掛け声だった。「成田山分身不動」は、子宝祈願をした初代・團十郎が、成田山へのお礼を込めて上演した演目で、この舞台が大当たりしたことから成田山新勝寺の名は一躍江戸市中に広まっていったのである。

    不動明王の出開帳と歌舞伎

    この頃、江戸では仏さまが旅をしてきて、お寺とは別の場所で一般公開する「出開帳」というイベントが大人気を博していた。特に成田山新勝寺のお不動さまの出開帳は好評で何度も出開帳を行っているが、この開催期間にあわせ歌舞伎上演も行われ、やがて團十郎とお不動さまはセットで語られるようになる。

    歌舞伎の「見得(みえ)」というポーズは、不動明王の表情から生まれたもので、「不動の見得」は市川家だけに許されたお家芸として知られるほか、團十郎の「にらみ」は厄除けに効くとして歌舞伎見物に訪れる客もいたのだとか。また、團十郎十八番(おはこ)の演目には、数々のお不動さま由来のものが取り入れられている。

    出世稲荷は名刺が必携

    新勝寺の境内は広い。仁王門や額堂、三重塔、釈迦堂、光明堂など江戸時代に作られた建築物は重要文化財に指定されているし、護摩祈祷の不動明王、恋愛成就の愛染明王などご利益も多い。中でも出世稲荷はお不動さまに次ぐ人気で、赤い絵馬に持参した名刺を貼り付けるというちょっと変わった祈願方法で知られている。

     また、現在の深川不動堂は、この出開帳の場所に建立されたお堂である。今では大阪・名古屋など全国に別院や分院が作られるほど、成田山のお不動さま人気は不動のものとなった。成田が遠い人も近くに別・分院をすぐに見つけられるだろう。

     成田山新勝寺では、7月7~9日に「成田山祇園会・祇園祭」が行われる。この日だけ奥の院(光明堂後ろにある洞窟)が開扉され、御輿(みこし)や山車、屋台が巡行する成田市の夏の風物詩である。当然であるが、奥の院横の一等席に今年も「市川海老蔵」の名を記した行灯(あんどん)が出ていた。十三代目の團十郎の名が境内に刻まれる日も近いに違いない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

    コラムニスト 鈴子
    昭和生まれのライター&編集者。神社仏閣とパワースポットに関するブログ「東京のパワースポットを歩く」(https://tokyopowerspot.com/blog/)が好評。著書に「怨霊退散! TOKYO最強パワースポットを歩く!東東京編/西東京編」(ファミマ・ドット・コム)、「開運ご利益東京・下町散歩 」(Gakken Mook)、「山手線と総武線で「金運」さんぽ!! 」「大江戸線で『縁結び』さんぽ!!」(いずれも新翠舎電子書籍)など。得意ジャンルはほかに欧米を中心とした海外テレビドラマ。ハワイ好き

    引用:AERA dot. (アエラドット)

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